こんばんは。
前回記事では、子ども2人未就園児時代が苦しかった、でも最近ちょっとはマシになった。と書きました。
一番つらかったのは、自己嫌悪。
子供に対して怒りを爆発させる自分、冷淡な態度をとる自分、辛辣な言葉を浴びせる自分…
こんな育児がしたかったわけじゃない。
今思えば、偏った思考に縛られていたと思う。
それが、理想とは程遠い、感情を爆発させてしまう育児につながっていたと思います。
縛られている間は、何に縛られているのかわからず、
私は頭がおかしいんじゃないか?
育児でおかしくなっちゃったのか?
もともと子供を育てる資質が無かったんじゃないか?
と思っていたのですが、最近何となく、自分を苦しめてきた思考のメカニズムが見えてきた気がしています。
私を苦しめていた思考①「子どもになめられてはいけない」
一番苦しかった頃、私を苦しめていたものの一つは
「子どもになめられてはいけない」という思考であった。
子供がわがままを言った時、「ここで折れたら、一生こういうわがままを言う子供になるんじゃないか」という強迫観念にも似た気持ちがあった。
また、2歳児をいなせなくて、これから思春期とかどうやって乗り切るんだ、親の威厳を見せなきゃみたいな思いもあった
「ここで折れたら舐められる」みたいな。
例えば、出先で自販機のジュースばっかり欲しがる時。「ここで折れてジュースを買ってやったら、一生ジュースばっかり欲しがっちゃうんじゃないか」と思うあまり、「ジュース欲しい!」と言われただけで、「またか~!!!」(ぐわぁぁぁ)って怒りが来て「ジュースなんか買うわけないでしょ!遊ぶために公園に来たのにっ!帰るよっ!!怒」ボカァーンと爆発してしまっていた。
ここでご飯を食べなくていいよ、って言ったら残さず食べられない子になるんじゃないか?
ここでラムネを買ったら一生買い続けなきゃいけないんじゃないか?
ここで「ごめんね」が出来なかったら、一生ごめんねできない子になるんじゃないか?
ここで片付けさせなかったら、一生片付けできない子になるんじゃないか?
一時が万時、この調子。
他の方のブログや育児書で、「子どもと同じ土俵に立たない」「穏やかに」「理性的に」と読むたびに、毎朝そう言い聞かせて、聖母を演じようと試みるのだが、もう夕方ごろにはダメになってしまう。その繰り返し。
私を苦しめていた思考②「他人から(主に他の親から)まともな親と思われたい」
とにかく、他の人の目線が気になっていた。
「いい親に見られたい」という加点方式の思考ではなく、「関わりたくない親子だと思われないか」「うわぁ…私だったらこれはしないわ~って引かれてないか」みたいな減点方式の思考。
放置してると思われるのがいやで、人前では子供に必要以上に構ってみたり(例:無人の砂場では無言で遊ばせてるけど、他の親子が来ると声色をワントーン上げて「お砂でプリンつくろっか~??」と声掛けする)。
お友達同士(=母親もママ友同士)で来てる子に混じりたがったら、邪魔に思われてたらどうしようとしれないと全力で引き剥がしに行ったり。
外で食べるおやつひとつとっても気を遣っていた。(ラムネとかグミとか年齢に対して早すぎると思われそうなお菓子は控えるとか)
また子供が外で愚図るのがすごく嫌だった。他の人の目を気にして早く収束させねば、母親スキルが試されている、と焦る。
だから、もうグズグズ…というか言い聞かせせねばいけないようなわがままを言い出した時点でまたかぁ~!!ってグワァーっと怒りがくるんですよ。
で、その場では人目があるから上手くいなした風に見せても、後で家帰った後にネチネチグチグチ言ったり。
どんな自意識過剰よ。って書き出してみて思いますが、本当にそういう思考回路だったんです。というか今でもこういう風に思ってしまう節がある。
「子どもになめられてはいけない」思考の解消法
とにかく、子どもにも自分にも甘くしました。
何事も一生続くわけじゃない、今だけ今だけ、将来の心配より今の心の平穏と自分に言い聞かせる。
今、一時的に脳がフリーズして厳しいモードになっちゃってる。甘いくらいでちょうどいい、と自分に言い聞かせる。
甘くしてもいいと思ったら、渋々じゃなく、気持ちよく甘くする。
一方で、これは折れられないと思ったら揺れないようにする。
以前はキレたり怒鳴ったりしながらも、心のどこかで「厳しすぎたか?」と折れようか折れまいか揺れてた気がする。それを子供に見透かされてヒートアップしてたのかなと。
この「甘く」と「揺れない」をベースに、
なにかトラブルが起こった時はこういう感じで対応していくようにしました。
以前はイライラを隠して聖母対応しようとするあまり、イライラが閾値を超えると決壊してしまっていた。本音を隠して大人の対応することが、「子どもと同じ土俵に乗らない」ことだと勘違いしていた。で、結果、子どもとおんなじ土俵で意地の張り合いしてるという…
最近は「困った」「怒りそう」「悲しい」「疲れた」「イライラ」などの負の感情その時その時、正直に子供に話すようにしている。
あと子供がイヤイヤモードの時の「信じて待つ」。
このステップとても大事だと思う。
だいぶ前に読んだこの本に書いてあったのですが
過保護と絡めて書いてあったので、その時はあまり関係ないかなと思ってスルーしていた。
過保護になってしまうことにはもう一つ理由があります。
それは親が”待てない”ことです。”待てない”のは時間がないから待てないというよりも、子どもがその行為を”できる”と信じてあげられないために”待てない”のです。
保育士おとーちゃんの心がラクになる子育て p135 「信じて待とう」より引用
以前は言い聞かせに対して、yesの答えが即答で出ないとイラっとしてました。
yesが出るまで何度も畳みかけて、それでもYESが引き出せないと爆発…
しかし、ある日、子どもがご飯を食べないといった時、「じゃあ食べたくなるの待ってるからね。ここに置いとくからね。」と言って、数十分ほおっておくと食べ始めたことがあった。
いままで即答を求めすぎていたけど、子どもは葛藤しながら、逡巡しながら、答えを出すこともあるのだなぁ。とその時気づいた。
私が信じて待たずにキレたり、諦めたりすることで、子どもの成長のチャンスをどれだけ奪ってきたのだろう…
それ以来、子どもがぐずった時は”信じて待つ”時間を取るようにしている。
待つときには、「どうせできないだろう」と匙を投げた気持ちではなく、「できるかもしれない」と期待しすぎないまでも、できることを信じて待つことがポイント。
また、待っているときは説得しない。ただひたすら、信じて待つ。
しばらく信じて待っていると、最終的に言うことを聞いてくれることが結構ある。
チャイルドシートのらない、シートの上で暴れまわる!
からの、「じゃあママここで待ってるからね~(運転席で休憩)」
で、数十分後にしれっと「行こう!」ってなるとか。
とはいえ、ほんとにどうにもならないときもあるので、そういう時は外なら抱きかかえて帰る、家なら寝るなど、強制終了が必要な時もある。
まとめますと、
・自分にも子供にも甘く
・折れないと決めたら揺れない
という基本理念のもとに、トラブルの際には
・負の感情を溜めずに子供に話す
・信じて待つ時間を作る
ことで「子どもになめられてはいけない」という呪縛から、少し解放された気がします。少なくとも、子どものわがまま(というか私の意に沿わない主張)の第一声でぶちギレることはかなり少なくなったと思う。
「他人から(主に他の親から)まともな親と思われたい」の解消法
これはもう、「他人のことを気にしない」につきます。
公園で出会うようなその場限りの人からは、何思われたっていいじゃない。
私の人生に何の影響も及ぼさないじゃないと割り切る。
他の親子が砂場に入ってきても(挨拶はするけど)、淡々と子供を見守る。
友達同士で来ている子に、長女が纏わりついても、よほど迷惑行為をしてない限りは見守る。
そして、他人が何してても気にしないようにする。
自分がだれかに減点されていないか気になるのは、裏を返せば自分自身が街で出会うママの子育てを、知り合いのママの子育てを、いつも読ませてもらっているブロガーさんの子育てを、減点方式で採点していたからなんじゃないかと気が付いた。
ので、他人の育児をジロジロ見て、無意識に採点するのをやめるように努めている。
あと、5chの育児板まとめサイトを見るのをやめた。
こういうの☟
ってリンク貼るついでにまた見てしまいましたけど(;'∀')
「ママ友がこんな行動してて引いた」みたいなエピソードがたくさんあって、なんか自分も周囲の人に思われてるんじゃないかって疑心暗鬼になってしまうので。
自分にパワーが不足しているときは、
数少ないママ友さんとも接触を控える。
タイトルからしてシャキッとした内容が推測できるブログ記事も読むのを控える(自分の生活と比較して落ち込みそうだから)。
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以上、長くなりましたが、私がこの3年間の育児で苦しめられてきた思考と、その解消法でした。
ただ、幼稚園に入ると、「まともな親と思われたい思考」については再燃する危険性が高いと思われる。
幼稚園は毎日あるし、あらかじめ決まったスケジュールがある。
今日はパワーがないのでどこにも出かけませんというわけにはいかない。
少なくとも、同じバス停の親子とは顔を合わせる。
そういった中で、他人と比較せず、他人の顔色を窺わずにはいられないと思うんです。
そこに関しては、新たな対処法を模索していかなければいけないと思っているところです。